【レジェンドインタビュー】和田 昌裕 氏

次の舞台は、プロビンチャの未来。

2017年1月31日

Jリーグ元年をガンバ大阪で迎え、阪神淡路大震災の年に地元クラブのヴィッセル神戸(当時JFL)へ志願の移籍。現役引退後も監督やフロントなどさまざまな立場でヴィッセル神戸に携わった。初めて指揮したタイ・プレミアリーグで最優秀監督賞を受賞したのは2014年のこと。以来国内外のクラブの監督を務めてきたレジェンドが、2017年シーズンはツエーゲン金沢の強化・アカデミー本部長という仕事を選んだ。3年ぶりのフロント、1年半ぶりの日本で、和田昌裕氏の新しい挑戦が始まる。

和田 昌裕 氏 ツエーゲン金沢 強化・アカデミー本部長

 

日本の指導者が、もっと海外に出ていくきっかけになれば。

 

20年近い歳月をヴィッセル神戸で過ごした。選手、監督、強化部長など、さまざまな立場でチームを強化した。2010年シーズン途中からチームの指揮を執り「奇跡の残留」を果たした監督として記憶されている方も多いだろう。2014年、神戸を愛するレジェンドは新しい挑戦を選択する。タイ・プレミアリーグの名門・チョンブリーFCの監督に就任したのだ。

 

――まず、関西レジェンドクラブとの関わりについて。梶野代表と親しいということですが。

現役時代からお互いのことは知っていました。私がガンバ大阪やヴィッセル神戸でプレーしていた時、彼はセレッソ大阪の選手でしたから。当時は対戦相手のひとりという感じだったんですけど、その後お互いにフロントでクラブの強化に携わるようになってから交流する機会が増えました。

 

――ヴィッセル神戸とセレッソ大阪、ライバルという感じでしょうか?

ライバルと思ったことはないですね。選手がより成長できる環境をいかに与えるかは、強化部の大切な仕事です。その意味でお互いにいい関係を築けました。最近では仕事だけではなくプライベートでも会うようになって。私がタイで監督をしていた時も何度か来てくれました。

 

――タイで監督をされるようになったいきさつを教えてください。

もともとヴィッセル神戸はタイのチョンブリーFCと交流があったんです。2012年に業務提携を結んで以来、アカデミーを中心に選手の受け入れや遠征などを行ってきました。私はヴィッセル神戸のフロントにいましたが、当時チョンブリーFCのトップチームの監督だったビタヤ氏※は、私がガンバ大阪に在籍していた時のヘッドコーチだったんです。そのビタヤ氏から「私は今季で辞めるから、来季からチョンブリーFCの監督をやってほしい」と依頼されたのが2013年のシーズン終盤でした。

※ヴィタヤ・ラオハクル氏 元タイ代表監督、1954年生。日本ではJSL時代にヤンマーディーゼルや松下電器でプレーし、ガンバ大阪のコーチやガイナーレ鳥取(当時JFL)の監督も務めた。

 

――当時和田さんは球団の副社長でした。監督のオファーはどんな気持ちでしたか?

それは嬉しかったです。監督をする喜びって、やはり特別なものですから。何ものにも代えられないというか…表現するのが難しいですね。もちろん、苦しいこともたくさんあります。どんな状況であれ、負けたら監督が全責任を負わなければいけない。すごく孤独だし、バッシングもあります。それでも、勝利した時の喜びに勝るものはないんです。ただ、迷いもありました。「いきなり海外か…」と。

 

――日本で監督をするのとはわけが違いますね。

もともと海外志向もなかったので、結構悩みました。日本人が監督として海外のクラブに行くケースも多くはなかったし、日本人が通用するのかもわからない。ただ、こんなチャンスもなかなかないでしょう。自分が海外に行くことで日本の指導者がもっと海外に出て行くきっかけになれたら、と思いました。

 

――その頃のタイのサッカー事情はどんな感じだったのですか?

当時のタイ・リーグは3つのディビジョンで構成されていて、日本人選手も60人くらいがプレーしていました。トップリーグにはJリーグ出身者もいましたが、多くは日本でのプロ経験がなく直接クラブのテストを受けて入団した選手たちです。サッカーのレベルは、代表チームを比較すればわかりやすいでしょう。W杯5大会連続出場中の日本代表に対して、タイ代表がアジア最終予選まで残ったのは今回が初めてです。クラブハウスやスタジアムなど施設や環境面でもJクラブほど恵まれてはいません。ただ、サッカー人気はすごい。テレビのニュースでの取り上げられ方などメディアへの露出でいえば日本以上の盛り上がりです。ポテンシャルはすごいと思いました。

 

 

 

日本人監督として、タイの名門クラブに何を残すか。

 

初めてのタイ・プレミアリーグ。サッカーをめぐる環境も、言葉や生活文化も違う。その状況で和田監督はチームをリーグ2位に導き、タイ・プレミアリーグ最優秀監督賞も受賞した。その背景にあったのは「モチベーター」としての姿勢と「全責任を負う」覚悟。ヴィッセル神戸時代からブレることのない、和田監督のスタイルだ。

 

――監督に就任された頃のチョンブリーFCは、和田さんにとってどんなクラブでしたか?

最初は通訳もおらず言葉もままならない状況でしたが、幸い選手やスタッフに日本人がいたこともあってスムーズにクラブに入れました。ただ、選手たちが平気で練習に遅刻したり休んだりするんです。最初は罰金を取ろうと思ったんですが、遅刻や休みで罰金という発想はタイの生活文化に馴染まないと言われて。それで、無断で遅刻した選手はたとえレギュラーでも試合に出さないことにしたんです。

――それは…思いきった対策です。

当時フロントにいたビタヤ氏にも相談したんですが、「え、そんなことして大丈夫? 試合負けるよ」って。でも、監督として日本からタイに来たからには、何かを残さなければと思っていたんです。成績も大事だけど、それまでクラブになかった規律を残すことも大切だと。ビタヤ氏も「おまえに任せる」と言ってくれたので、選手たちに「遅刻したら使わない」と明言しました。それが、シーズン最初の公式戦にレギュラーのセンターバックが無断で遅刻。

 

――いきなり守備の要が…どうされたんですか?

「どうしますか?」ってコーチたちにも言われたけど、「この試合に彼は使わない」って。サブの選手を起用しました。結果は3-0で勝利。これは、私がタイで監督していくための一番大きなポイントでしたね。もしも負けていたら監督解任になっていたかもしれない。でもそこで勝てたんです。選手たちも「この監督は本気だ」ってわかったと思う。そこからチームは本当に変わりました。

 

――就任1年目でクラブはリーグ2位。結果を出せたポイントは何だったんでしょう。

選手全員を公平に扱ったことがモチベーション維持につながったと思います。それまでのチームは、レギュラー選手はほぼ固定でサブの選手にあまりチャンスがない状況だった。でも私は練習で頑張っている選手たちをできるだけトライさせたかったんです。それで、開幕前日のミーティングで「この一年間、私はここにいる全選手を使う」と約束しました。実際にシーズン通してメンバーはあまり固定しませんでした。たとえ勝った次の試合でも、いい選手がいればメンバーを代える。レギュラーだって安心はできないし、サブの選手もチャンスをつかもうと頑張ります。そういう雰囲気を練習からずっとつくってきたので、選手たちも最後までモチベーションをもって戦ってくれました。

 

――若手からベテランまで、全員を使ってモチベーションを高めるのは、和田監督のスタイルですね。

チーム全体のレベルが高かったからそういう起用ができたのもありますね。チョンブリーFCはタイ代表の選手も多く所属するチームで、誰もが試合に出る力を持っていましたから。中にはちょっと若すぎる選手もいてね。タイU-17代表の選手でその年代のスーパースターですが、やはりトップとは力の差がある。ただ、将来有望な選手だし、何とか出場させたいとベンチに入れてチャンスを待ちました。余裕のある試合展開になったら投入しようと思って。さすがに数試合だったけれど、経験を積ませるという使い方もできました。

 

――クラブにとっては初めての日本人監督。フロントとの関係はどうでしたか。

サポートもあったけれど、プレッシャーもありました。シーズン途中でリーグ4位になったことがあって、その時は「絶対に5位以下にはならないでください。チョンブリーFCはそんなクラブではないですから」と言われました。当時タイ・プレミアリーグは全20チーム、まだシーズンの1/3あたりで各チームそんなに差がない状況でした。それに、長いシーズンを勝ち続けるにはフロントの協力も必要です。ただ、現場のことはすべて監督の責任。結果が出ないのは自分の力不足ととらえて、チームの指揮を高めるほうに気持ちを切り替えてやりました。

 

 

 

フロント入りを決意させた、ツエーゲン金沢の可能性。

 

2016年、タイ・プレミアリーグはプミポン国王の崩御により3節を残してシーズンを終了した。降格危機に直面していたシーサケットFCは、シーズン途中で和田監督を招聘し無事にタイ・プレミアリーグに残留した。結果を残す日本人監督にオファーもあったが、和田氏は日本にもどることを選ぶ。1年半ぶりのJリーグ。ツエーゲン金沢の強化・アカデミー本部長に就任した。

――ツエーゲン金沢の印象を教えてください。

そうですね。J2に昇格してまだ2年、歴史も浅く規模も小さい地方クラブです。フロントもあまり人がいない状況ですが、まだまだ成長できるクラブだなというのはすごく感じました。お話をいただいたGM※の人柄に惚れたのも、ここを選んだ理由です。まだ40歳と若いGMですが非常にバイタリティにあふれていて。同じ神戸出身というところでも意気投合しました。「この人の力になれるのであれば、チャレンジしてみよう」そう思える出会いでした。

※西川 圭史 氏 1976年生、神戸市出身。東京大学法学部卒、日本政策投資銀行入行後、地域貢献活動を志して赴任先の金沢で独立。2011年、Jリーグの理念に共感して当時JFLだったツエーゲン金沢のGM代理に就任し、クラブのJ2・J1ライセンス取得も実現してきた。現在は代表取締役GM。

 

――「強化・アカデミー本部長」というのはどういうポジションですか?

トップチームやアカデミーなどの現場とフロントをひとつにまとめる役割ですね。これまでツエーゲン金沢は、人が少ないこともあってチーム運営もクラブ経営もGMの直轄だったんです。ただ、GMには現場での経験がないため、チーム強化や選手育成はどうしても現場頼りになってしまう。双方のコミュニケーションをうまく図るために、現場もフロントも両方経験した私のような人材を求めていたんです。

 

――これまで和田さんが在籍された関西のJクラブとは違うことも多そうです。

クラブの規模もそうだけど、地域環境も違いますからね。関西ではあたりまえにできたことが金沢ではできないとか。練習でも、金沢は雪が降るのでいろんな不自由さが出てきます。開幕直前まで長期間キャンプをするなんて、私も初めての経験ですよ。そんな厳しい環境の中でも、選手たちができるだけいいコンディションで試合を迎えられるような体制づくりをしていかなければと思っています。

 

――新しいクラブでのフロントの仕事、手ごたえはいかがですか?

今はまだ、いろんなことで後手を踏んでしまうクラブです。資金力もそう多くはないので、呼べる選手も限られてくる。クラブの規模をあげるためにはスポンサーも必要ですから、その分野でも何かサポートできればと思っています。幸いヴィッセル神戸のフロントにいた頃は、そういう仕事も経験がありますから。ただ、サッカーはお金だけでもないですからね。選手を惹きつけるクラブの魅力も、私自身がこれから見つけていかなければいけない。「ツエーゲン金沢はこういうクラブだから、きみにオファーを出した、きみにプレーしてほしい」という何かがないと、選手も来てくれないと思うので。

 

――ぎりぎりでJ2に残留したクラブがどう変わっていくか、これからが楽しみです。

トップチームには厳しいシーズンになると思います。2016年の成績を考えたら、むしろ勝てないことのほうが多いかもしれない。辛い時期も当然あると思いますので、フロントとしてしっかりチームをサポートしていきます。トップチームは今季から柳下監督※がチームを指揮することになりました。監督を信頼し常にコミュニケーションを取って、現場が安心して仕事に専念できる環境をつくりたいですね。「和田がいるから現場に打ち込める」「あとは和田やGMがやってくれる」そんな信頼関係で戦うクラブにするために、まずは私が誠意をもってどんな仕事でもやっていきたい。そんなに急には変われないかもしれないけれど、地域の人々に「このクラブにはまだまだ可能性がある」と思ってもらえたら嬉しいですから。

※柳下 正明 氏 1960年生、静岡県出身。ヤマハ発動機でプレーし、1993年からジュビロ磐田のコーチ・監督を務めたほか、コンサドーレ札幌やアルビレックス新潟でもチームを指揮。2017年、ツエーゲン金沢の監督に就任。

 

 

和田 昌裕 氏

1965年生、神戸市出身。兵庫県立御影高校や順天堂大学時代から全国の舞台を経験し、1987年には松下電器(現ガンバ大阪)に入団。1993年のJリーグ開幕戦ではガンバ大阪初ゴールを決めた。1995年7月、震災をきっかけに当時JFLだったヴィッセル神戸に移籍し、翌年チームをJリーグ昇格へ導いた。1997年に現役を引退した後もクラブに残り、コーチ、監督、強化部長やチーム統括本部長、シニアディレクター、取締役副社長などを歴任。2014年には神戸を離れ、タイのチョンブリーFCの監督としてタイ・プレミアリーグ最優秀監督賞を受賞。その後、京都サンガF.C.、ポートFC、シーサケットFCの監督を経て、2017年ツエーゲン金沢の強化・アカデミー本部長に就任。